4chan発のインターネット都市伝説を映画化した『バックルームズ』を観た。国内では賛否が分かれているようだが個人的には割と好きな作品だった。全ては全然分からない、だがそれが良い。

主役はバックルームズそのもの
まず感じたのはこの映画は人物ではなくバックルームズという空間そのものが主人公なんだな、ということだ。人智を超えた空間を舞台にしたシチュエーションスリラーでいうと例えば『CUBE』なんかは極限状態に置かれた時の人間模様が描かれていた。というかこの手の映画は空間自体に合理的な説明がつかず、そこを深掘っても迷子になる可能性が高いので、人間模様中心になるのが一般的だろう。その点でバックルームズは多くのシチュエーションスリラーと一線を画しており、この動画- YouTubeで監督が「もともとの概念としっかり調和する道を見つけられた」と語っている通り、元ネタの面白さがしっかりと活かされた映画になっていたと思う。それでいてダレることなく緊張感を維持するスリラーになっていて、その辺りはさすがA24の得意分野という感じがした。
あとSNSでは『8番出口』と比較する感想も散見されたが、そもそも人間ドラマを描こうとしているかしていないかが大きく異なるのであまり比較できるものではないし、人間ドラマを期待しているのであれば『バックルームズ』はその期待を裏切られることになるので、そこが賛否が分かれている大きな要因ではないだろうか。
バックルームズは超現実
では主人公であるバックルームズとは一体なにか?
強く感じたのはシュルレアリスムとの類似性である。反復されるモチーフ、床にめり込んでいたり繋がったりしていて本来の用途として成り立たない道具、パースが歪な空間、どれもシュルレアリスムのそれだ。デ・キリコの描いた空間なんてまさにバックルームズそのものだ。

シュルレアリスムとは夢や無意識の世界を表現し、現実以上にリアルな真の現実=超現実に触れることで人間の自由と精神の解放を目指した芸術運動だ。このインタビューA24公式 on X: "大ヒット絶賛上映中『バックルームズ』ティーチイン イベントレポートが到着 #バックルームズ https://t.co/0zzeKIeWC0" / Xで監督も「 この映画に含まれているものの大半は、無意識から出ています。」と語っており、バックルームズが人間が自分でも知覚し得ない精神的なものを表す面があることは間違いないだろう。シュルレアリスムはフロイトの精神分析の影響を強く受けているが、登場人物の一人の名前がフロイトに影響を受けた実在の精神分析家「メラニー・クライン」と一文字違いの「メアリー・クライン」であることもそれを示唆していると考えられる。
フロイトは「不気味なもの」という概念を提唱したが、これはかつて自分にとって馴染み深く安心できたものが心の中で抑圧されたあとに恐ろしい姿として再び現れる現象を指す。まったく知らない未知の恐怖ではなく、かつて知っていたのに、何らかの理由で切り離されたものが戻ってきたときに不気味さを感じるということだ。リミナルスペースは既視感が大事な要素であることも踏まえると、バックルームズはまさに「不気味なもの」と言えるだろう。
この「不気味なもの」を可視化したのがシュルレアリスム=超現実=現実以上にリアルな真の現実=バックルームズである。
不安との向き合い方を考える
ではこの「不気味なもの」であるバックルームズにはどのようなメッセージが込められているのだろうか。ハイデガーの哲学を補助線に考えてみたい。
「不気味なもの」に相対した時に抱くのは恐怖というよりも不安である。ハイデガーは「不安」を特定の恐れの対象がなく、世界そのものや自身の存在の根拠のなさ(無)に直面させられる根源的な気分だと言っている。バックルームズも何かがいる気配がずっとしているが、それが何なのかは分からない。ハイデガー曰く、不安に明確な対象がないのは、不安な状態にある時、私たちを苛んでいるのはこの世界に自分が存在していること自体だからだ。「私」がここにいるということ自体が、「私」に対して不安を呼び起こすのだ。
ここも色々な解釈ができると思うが、バックルームズが無意識の世界を表現しているのだとしたら、バックルームズにいる何かは自分自身だとも考えられ、ハイデガーの言説とつながる。
自分がこの世に生きていること自体が不安の源泉であるとしたら、不安と対峙するとは即ち不安の源泉である自分自身と向き合うということだ。しかし自分自身と向き合うというのはそう簡単にできることではない。人間はついつい不安から目を逸らすために周り同調することで安らぎを得ようとする。だがそれは自分自身の人生を生きているとは言えない、ハイデガーの言葉で言えば「非本来的な生き方」なのだ。
では本来性を取り戻すにはどうすれば良いのか?ハイデガーは「決意性」が大事だと言う。
<良心をもとうと意志すること>に示される現存在の開示性は(中略)、現存在において、その良心によって証しされる本来的な開示性であり、この傑出した開示性は、もっとも固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながらみずからを投全することである。わたしたちはこれを決意性と呼ぼう。
ハイデガーらしい難解な文章だが、一言でいうなら「自分の人生を、自分の人生として引き受けよう」ということだ。「引き受ける」とは他人のせいにせず、「仕方なかったんだ」と言い訳しないことである。映画の登場人物もバックルームズの中で自分の人生を自分の人生として引き受けられたかどうかで運命が左右された。つまり未来へ向けて過去を引き受けるということがバックルームズに込められたメッセージなのではないだろうか。
答えがないことを受け入れる
長々と書いてきたが、これは私の勝手な解釈であって、前掲の動画の中で監督が「これがメッセージだと言うつもりはない。観た人それぞれが汲み取るべきもの。」と言うように、解釈に正解があるわけではない。つまりこれは考察ではなく批評である。考察とは作品に「正解(作者の意図や真相)」があることを前提にそれを読み解こうとすることで、対して批評とは作者の意図とは無関係に、受け手が勝手に自分なりの意味や価値を見出すことだ。
三宅香帆が『考察する若者たち』で指摘したように、今の世の中は何にでも正解を求めすぎる傾向がある。しかし世の中には正解がないこともたくさん存在する。答えがないことは不安だ。それでも不安のなかに踏みとどまり、自分の人生に答えがないことを受け入れるためには、決意性を発揮しなければならない。人生には何も確かなことはないし、誰も正解を教えてくれない、でもそうした状況のなかで、自分自身の人生を選び取るのだと決意すること、またそうした人間でありたいと意志することが大切なのだ。分からないものを明確に分からせずに終わる映画『バックルームズ』からはそんなメッセージも受け取った。