日和見びより日記

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24/01/23 たまには真面目な話を

会社でダイバーシティの研修を受けた。色々と勉強になったのだが、Equity エクイティについての話が面白かった。

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もともとどちらかに曲がった木がありその脇に二人の子どもがいたとして、

・何もせず曲がった側にいる子どもに有利な状態がInequality(不平等)

・木の曲がりを考慮せず二人に同じ高さの脚立を与えるのがEquality(平等?)

・木の曲がりを考えて一人には5段の、もう一人には7段の脚立を与えるのがEquity(衡平)

・そしてそもそもの木の曲がりを直して同じ高さの脚立を与えて問題ないようにするのがJustice(正義)

というわけだ。分かりやすい。Equity(衡平)までの画像はSNSでもよく見るが、個人的には最後に正義があるのが良いなと思った。

例えば女性役員登用についてとある企業の男性役員から「女性にゲタを履かせるのか!」という発言があったとして、この男性役員はいま自分が履いている高いゲタのことを分かっていない。高いゲタとは、男性であるが故にこれまで与えられてきた仕事に集中できる環境や家庭のサポート、その他色々だ。

そういう環境的な問題(木が曲がっているという状態)を考えると、最初はとにかく女性役員を登用するという形的なこと(環境を踏まえて一人には7段の脚立を与えること)をしないといつまで経っても不平等な状態は変わらないということである。

この話を聞いて思うのは、世の中の有利な立場にいる人(木が曲がっている側に立っている人)は思った以上に自分が有利な立場にいるということに気が付かないということだ。もちろんそのままの方が本人にとっては都合がいいので、人間の生存本能として木が曲がっていることに気付かない力が無意識に働いているのだと思う。だからこそ最初は半ば強制的に高さの違う脚立を用意していきましょうということだが、逆説的に考えると「これって不平等じゃない?(脚立の高さ違くない?)」と思った時は翻っていまの環境がそもそも不平等なのでは?と疑ってみることが必要なのではないだろうか。意識的には気付けない不平等な環境を不平等(と思われるもの)を入り口にして認識するということだ。

いま松本人志問題がいろいろな論争を巻き起こしているが、女性側の告発を許していたら男性がリスクを追いすぎる!女性に有利すぎる!不平等だ!という言説がちらほら見られる。でもこれはまさに男性側に木が曲がってる現在の社会構造に目を向けずに同じ高さの脚立を与えろ!と叫んでいるわけだ。女性が声を上げやすい状況は一見女性側が有利に見えるかもしれないが実はそれがEquity(衡平)な状態であって、それを受け入れないといつまでも木が曲がった状態は直せない。だってそれを受け入れないということは木が曲がっていることを認めない、認識しないということだから。そもそも認識しなきゃ直していくことはできるわけがない。まずEquity(衡平)を実現した上で本来あるべき健全な状態、つまりJustice(正義)を目指すしかないのだ。

まさに無知の知である。個人だけのことを思えば知らないことなんて知ってるよと思うかもしれないが、こうやって社会の話になると無知の知の難しさがよく分かる。やっぱりソクラテスすげぇ。

 

帰って奥さんとフェミニズムについて話した(いま奥さんはフェミニズム小説を書こうとしている)が、わけ知り顔で研修で学んだEquityについて話す。会社の研修と社会の話が繋がるのが気持ちいい。いつのまにか社会人生活も10年目を迎えようとしているが、こういう時に大人になったなぁと思う。三十にして立つ、とは孔子もよく言ったものだ。ソクラテス孔子も世の中の道理がわかりすぎではないだろうか。