日和見びより日記

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ケリス・ウィン・エヴァンス個展「L>espace)(…」

表参道のエスパス ルイ・ヴィトン東京で開催されているケリス・ウィン・エヴァンスによる個展「L>espace)(…」に会期終了間近に滑り込んできた。閉館も間近で他にお客さんもいなかったのでスタッフの方から解説もしてもらい、2024年一発目、なかなか良い時間を過ごせた。

ケリス・ウィン・エヴァンスの作品は初めて見たと思うが、どの作品も意味を考えさせる余白を存分に感じさせてくれる作品であった。

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彼の作品は写真的イメージやテキスト(多くはネオンで示される)、光、音、ビデオなどを通じて、空間における形の顕在化について探求するものです。そして壮大なスケールでありながら、コンセプチュアルアートへの深い造詣により生まれる独特の距離感を持って存在しています。エヴァンスが作り上げるのは、意味の迷宮です。空間に形となって現れる引用や原典のあるテキストは、しばしば不可解な難問の様相を呈します(展示解説より)

 

Still life (In course of arrangement...) Ⅱ

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最も印象に残ったのが赤松の盆栽がターンテーブルの上でゆっくりと回るこの作品。

この作品は、マルセル・ブロータスの〈冬の庭〉というヤシの木を使った作品への共感をベースに作られた。人の手で管理された温室で育てられたヤシの木と、人が手を入れて整える盆栽をリンクさせているそうだ。

エヴァンスはすごく日本好きのアーティストらしく、盆栽というモチーフもそこから選定されたものだろう。スタッフの方曰く、古き良き日本人という感じでとても柔和な温かい人らしい。それはもう、日本人より日本人らしい方なんじゃないだろうか。

またモチーフにされた〈冬の庭〉を作ったマルセル・ブロータスは作品に皮肉やユーモアを込める作風だったそうだ。盆栽が回っている意味は作者から明かされていないそうだが、このブロータスの作風を聞いて私が思ったのは、普通ちゃんと裏と表があって見る方向が決まってる盆栽を回転させてあらゆる面から見せることで、本来あるべき姿と現実の違いを皮肉ってるのでは?という解釈だ。

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そんな解釈どうですか。とスタッフの方に話すと、もう会期も終わりだがこれまで他のお客さんからは聞いたことのない解釈でとても面白いと大いに感心してくれた。

ちなみにこういうお客さんからいただいた意見や見解は本国を通してアーティスト本人にも伝えられるらしい。限りなくゼロに近いとは思うが、私の解釈がエヴァンス本人の耳に入り今後の創作活動にほんの僅かでも影響を及ぼす可能性があると思うとめちゃくちゃワクワクしてくるな。おーいエヴァンスー!見てるかー!

 

A=F=L=O=A=T

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室内の空気を取り込み、パイプで繋がれた音階の異なる20本ガラス製のフルートがアーティストが作曲した音楽(会場で短時間聴くだけでは音楽というよりただの音だが)を奏でる作品。パリのルイヴィトンの建物を音で想起させているらしい。どんな曲かは公表されておらず、盆栽が回る意味同様に解釈は鑑賞者に委ねられているわけだが、会場でずっと聴いているスタッフ曰くおそらく3時間くらいの現代音楽であろうとのこと。これはスタッフにしか分からないであろう境地で羨ましい。

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建物を音に変換するという3周くらいした大喜利のような難解な翻訳だが、作品の構造の奇抜さが意味の難解さと上手くリンクしてアーティストらしさが全開な作品だと感じた。作品の真下に立つことが出来るのだが、降り注ぐ音を浴びて「具体的な意味は全然分からないけれど何かしらの意味がそこにあるということだけは分かる状態」を全身で享受できる。

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"Letre à Hermann Scherchen" from 'Gravesaner Blätter 6' from lannis Xenakis to Hermann Scherchen (1956)

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楽家ヤニス・クセナキスが残した手紙をモールス信号に変換し、その信号に合わせてシャンデリアを点滅させる作品。これも文字→光と手の込んだ翻訳。クセナキスコルビジェに師事した建築家でもあり、ラ・トゥーレット修道院の設計の一部を任されたりしている。さらに数学も得意な彼が書く楽譜はもはや何かの設計図である。以前別な展覧会でもクセナキスの名前を見た記憶があるがなんの展示だったかさっぱり覚えていないな…

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モールス信号にされている手紙はクセナキスがドイツ人の指揮者に宛てたもので、彼が作曲した『ピソプラクタ』という曲の一部に入れた確率についての思案が含まれており、「思考は直線的ではない」という考えが強調されているもののようだ。そしてこの原理はエヴァンスの作品の核にあるものでもあるという。

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文字を光に、建物を音に変換するように、

エヴァンスの創作の特徴は、情報伝達の手段を「テキストや記号、光、音などを運ぶ器」ととらえ、別の器に移し替える=「トランスポジション」することで、もとの器には見られなかった美しさを現出させ、作品の背後にあるコンセプトを重層化させることだと言われる。(美術手帖24年1月号)

この移し替える行為にこそ「思考は直線的ではない」というクセナキスに共感するエヴァンスの考え方が表れているのだと思う。

 

...in which something happens al over again for the very first time/Sentiment

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展示解説にはこう書かれている。

テキストとネオンを用いた作品は、自らの作品もその一部を成す「間テクスト性」を脱構築しようとする試みを上手く表現しています。

間テクスト性(かんテクストせい)という言葉自体に聞き馴染みがなかったのでWikipediaで調べてみたが、なかなかに複雑だ。簡単に理解できることではないと分かりつつも、あえて誤解を恐れずざっくりいうと、あらゆるテクストは先行するテクストのネットワークの中で存在しているということでよろしいかな?

エヴァンスはその間テクスト性から脱しようと試みた。つまり液体を発光させるネオン、すなわち光によってテクストを表現する(この表現自体もジョセフ・コスースというアーティストのオマージュなようだが)ことで、テクストをテクストではない何かに翻訳したのではないだろうか。

作品解説には

ケリス・ウィン・エヴァンスは、芸術による芸術の正当性に対し、それぞれの観客による、自由で純粋な解釈を対峙させているのです。

とあり、テクストを光という器に移し替えることで間テクスト性から解放し、その翻訳結果を鑑賞者に委ねているのだと思う。

 

どの作品も正直、どんな意味があるのかは分からない。エヴァンス自身もその解釈を鑑賞者に委ねている部分があり、彼はそれを「意味の迷宮」と呼んでいる。つまりアーティストが意図的に余白を残してくれているのだ。

しかもどの作品も具体的な意味は全然分からないけれど何かしらの意味がそこにあるということだけはバシバシ伝わってくる。こんなに考察のしがいがある作品もそうそうないだろう。

そしてここまでの考察を深めるのは静かに一人で見ているだけでは出来なかったと思う。今後もスタッフさんと積極的にコミニュケーションをとっていきたい。